昭和24年、鹿島俊郎により普明会[後の普明会教団]が設立されました。この普明会の設立そのものが、戸次貞雄と霊友会との関係を証明するものでもあるのです[『戸次貞雄と霊友会』参照]。
鹿島俊郎の霊友会の信仰は、叔母である鹿島アヤコの導きにより、第七支部の下、昭和14年、14才に始まりました。その後17年ころから、自身の霊媒の体験などを通じて、本格的な信仰活動が始まりました。鹿島は、横浜支部公称 2万人[実質 1万人]の導き親となりました。当時横浜支部には道場がなく、斎藤新次[後に霊友会職員となった]宅で、横浜支部としての法座が開かれていました。鹿島の依頼により、小谷キミ会長も二度ほど法座に訪れています。鹿島は「法蔵護持者」として小谷会長から抜てきされ、昭和22年 3月旧制高校を卒業するとともに、 4月霊友会本部職員となりました。そして叔母のアヤコと母かのえ、妹の四人で本部敷地内の住宅に住み、当時、久保継成(つぐなり)[久保角太郎二男、霊友会二代会長]の家庭教師となるかたわら、会報の作成、組織・教義の研修、信徒の指導にあたっていました。
小谷会長は、かつて横浜支部が孝道教団として霊友会から分立した経緯があり、横浜支部の名称を嫌っていました。そして鹿島の横浜支部は、更なる信者数の増加のために、鹿島の監督の下、鹿島支部、伊藤支部[支部長:伊藤あや]、斎藤支部[支部長:斎藤新次]、北村支部[支部長:北村美一]の四つが支部を名乗ることを許され、横浜支部の名称は廃されました。四支部の信者は当時、横浜はもちろん、神奈川、東京を中心とする関東地区、浜松、渥美、名古屋などの東海地区、その他、山梨、長野、大阪、富山、広島、岩手など、全国に広がっていました。
鹿島の小谷会長に対する信頼は絶対的なもので、また当時の関係者や鹿島自身の述懐によれば、小谷会長も鹿島を信頼し、我が子のように扱ってくれ、返礼することができぬ大恩を受けていたとのことです。
しかしその後、鹿島には、どうしてもぬぐえぬ疑念が生じ始めました。小谷会長に対する感謝の念は変わらぬものの、霊友会の教義に限界と疑問を感じ、またその現状に関して苦悩の日々を送るようになったのです。
ちょうどその頃、先輩職員の稲葉という人から、会報編集の仕事をするなら読むようにと、『昭和の法華経と常不軽菩薩』という著書を勧められ、一読するや衝撃を受け感動し、魂が打ち震えたと述懐していました。そして霊友会発行とはなっているものの、著者は普明堂主[戸次貞雄のこと]とされており、この普明堂主のことを様々な幹部達に尋ねたところ、「真の霊友会の創立者ではあるが、普明堂主のことは秘密で口にしてはならない。戸次を気違い坊主として扱うことになっている」 「久保角太郎師が、霊友会の信仰を戸次先生にお返ししなければならない、戸次先生にお会いしたいと何度も言われて亡くなった」 などという話を聞きました。霊友会幹部たちの間では、公然とした秘密であったとのことです。鹿島の真の教えを求める思いはつのり、心は普明堂主に傾いていったのです。
その頃の霊友会は腐敗していました。禁制されていた金を隠匿するなど様々な問題があったのです。この件でも鹿島は悩み始めました。当時の霊友会の会報には「正行」として、他からの金品の授受を禁じ、ほかにも慎むべき事柄が毎回掲げられていました。会報作成に関わっていた若い純粋な鹿島にとっては、その矛盾に耐えがたく、「身が細る思いであった」との言葉を残しています。
このような霊友会の腐敗自体も、鹿島は霊友会の説く法華経の行きづまりの結果と考えたのです。そこで、いく度となく小谷会長に戸次貞雄に再び従うこと、そして金塊の件など善処されるよう説得したのですが、取り合ってはくれなかったとのことです。
鹿島は、小谷会長から受けた個人的大恩と、霊友会の腐敗した行為の社会的責任との板挟みで、苦しみました。後者を取れば親不孝者、裏切り者になる、前者を選べば見て見ぬふり、自らもその行為を認めたことになり、信仰する者として社会的責任も果たし得ないと考えたのです。
とうとう鹿島は脱会を決意し、戸次の教えにつくこと、また、「もう霊友会は、徹底的に改革しなければ良くならない」との言葉のもとに、あえて霊友会の恩知らず、裏切り者になる道を選びました。この決断が正当なものであるか否か、またいかに難しものであるかは、察し得るはずです。しかも霊友会の敷地内に住む、中心にいた内情を知る職員の脱会となれば、なおさらです。
昭和25年 7月10日の『普明会報』創刊号において、鹿島とともに霊友会を脱会し、常に鹿島の補佐的存在であった小川喜久三の「発刊の言葉」として、「私達は霊友会の教義の行き詰まりと疑惑の壁に突き当たり、風の便りに聞く大恩師の影を求めて、この大法、否大道に遭い奉ることができた果報者であります。いわば里子が生みの親の膝元に帰ったようなものであり、したがってこの生みの親の御恩報じに粉骨せねばならぬ次第であります」と述べています。
また、敬神崇祖自修団[自修団]昭和26年10月 1日発行の『RDG報』 9号、「普明会の由来」と題する小川の言葉に、「霊友会の奉讃する『仏所護念』、これこそこの地上に布かれた最上にして唯一無二の法だと信じきっておった我々は、おいおいその行ずる跡に疑惑の眼を向けるようになったのは、今から思えば理の当然にして自明のことなるも、当時は、法は正しいはずだが、いったいこれはどうしたわけかと、真剣に考え苦しんだものであった。
その折も折、我々の目に触れたものが、恩師著すところの『昭和の法華経と常不軽菩薩』その他一二の小雑誌であった。これだッ、これこそ我が多年捜し求めておったものだッ。とばかり一も二もなく飛び込んで来たのが、この妙皇道であったのだ。法と道、これを我々は今まで混同して分別することができなかったのであった。かくして霊友会より受けた七年間の育みの恩誼(おんぎ)と愛着とを、ここに大法と正道の御前に血涙と共に断ち、同会長以下全信者の真の悟りの門に入られんことを衷心(ちゅうしん)より希(ねが)いつつ、一昨年十一月蹴然(けつぜん)立って離脱し、恩師の足下にはせ参じ……」とあります。
以上、鹿島俊郎の霊友会脱会は、完成された教えを求める心と、当時の霊友会の腐敗が理由でした。そしてそのことが鹿島をして普明会設立の運びとなるのです。しかしそれは鹿島にとって、生涯、小谷キミ会長対する心の苦悩となったことを、ここに付記しておきます。
詳しくは ⇒書籍「鹿島俊郎 普明会の設立」をご覧下さい